ひねもすのたのた

とりあえず日常かな

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ブログで討論する

先日の「母性」に関する愚樵さんとの対話は、いまふり返ると
まったくきついものでしたが、考えさせられるものでもありました。

終わってみて、ブログで討論するには何が必要かといえば、
それは相手の視点を自分ももつこと、だと思いました。
別に視点を一致させる必要はまったくありません。

相手がどんな視点をもっているかを確認する。
それにより、自分がどういう言葉をいえば、相手に伝わるか、誤解を招かないか、
判断できるのだな、と思いました。

現実はといえばですね、愚樵さんに一方的に私の視点を
押し付けただけなんですが(^^;)、
私がなぜ愚樵さんの見方をあえて受け入れようとしないか、という点は
愚樵さんが広い視点をもつ方なので、わかっていただけたと思っています。

で、その後です。Lightさんという方に
「母性とか女性原理といったような言葉に対する拒絶感を
これほどまでに見せつけられることは、まるで自分が否定されているような気がする」
というコメントをいただきました。

しまった、と思いました。私にはこの視点がまったくなかったから。
議論に疲れていたので、あまり丁寧なお返事はできなかったのですが、
このコメントを軽くみたわけではありません
(Lightさん、ぞんざいなお返事、申し訳ありませんでした)。

そう感じる人もいるだろう、ではその人にはどう伝えればいいんだろう?
ということを考えなくてはいけないな、と思いました。このときは余裕がなかったけれど。

私が「私はこう感じた」ということを重視するのはこの点です。

私が何を主張したかったのか、でも実際の主張と言葉はどう違っていたか、
その言葉は相手にどう受けとられたか、
それをつねに確認しつづけなければ、自分の言いたいことをブログ上で
伝えることは決してできない。

同じように「私はこう感じた」ということを相手に言い続けなければ、
相手の真意をつきとめることもできないのです。

相手の視点がまったく見えなければ、もちろん討論などあり得るはずがありません。
相手が何を受けとったかを確認せず、主張のみをくり返せば
たがいに平行線をたどるしかないのですよね。

これはあまりこのブログ上では言いたくないことですが、
先日、私は他のブログである騒動をおこして自爆しました(笑)。
やり方が非常にまずかったと思います。

で、この騒動にはさらに元になる水伝という騒動があるんですね。
これは非常にいやな後味を残しました。

なぜこれが単なるブログ上のいざこざで終わらなかったか、
終わらせることができなかったか、
それは私は、当事者どうしが相手の視点をまったくもとうとしないことにもあるように思いました。
(ほかにもさまざまな背景や要因はあります)

自分の言葉が相手にどう受けとられるかを想像しようともしない、
それはやはり自分の意見を相手に伝えようという態度ではないでしょう。

相手の視点をもつ、というのは、
たがいに反対意見をもつときには非常に難しいことだと思います。
でも、ブログというたがいに顔をあわせない関係では、
相手の視点を確認し、自分が発した言葉を相手がどう受けとったかを
きつくても見つめ続けなければいけないのでしょう。

これは自戒です。
私にとってはやっぱり難しいことなのです。
私が忘れていたら、誰か教えてくださいm(_ _)m

(これは水葉さんに捧げる文章でもあります。この考えは、
水葉さんが私に教えてくださったことですから)

☆追記 いろいろ心配をおかけしてしまった人もいます。でも、自爆したときは、
あまり腹がたったり悲しんだり、とかは実はあまりありませんでした。
それより愚樵さんとの方がはるかにきつかった。

なぜだろう、と思ったのですが、それは愚樵さんが私に考えることを
要求していたから、のような気がします。それだけではないかもしれないけど。
また考えてみます。ありがとうございます。

☆ちょっと留守にしますので、週末はコメントのお返事できませんm(_ _)m
  • [No Tag]

Comment[この記事へのコメント]

おめでとうございます! 

えあしゃさんのこのエントリー、私は“産みの苦しみ”の自覚なんだと受け取りました。 違うかな? 違うなら、ごめんなさい。最初に誤っておきます。

私の受け取り方が正しいならば...、えあしゃさんは何かをもうすぐ生み出す。もう生まれ出ているのかもしれない。だから

「おめでとうございます!」

そうして生み出したものは、きっと価値あるものです。

水伝騒動 

  • Light 
  • URL 
  • at 2008.04.19 23:29 
  • [編集]
Lightです。
思いがけずエントリーまであげていただき、うれしく思っています。

>あまり丁寧なお返事はできなかった
とありますが、十分丁寧なお返事でしたよ。むしろお疲れなのに…と恐縮しました。

少し長くなりますが、私はこのように考えています。

「話し合うことでどんどん発展する話題」と、
「話せば話すほど分断していく(同じ考え方の人たちだけが固まっていく)話題」
というのがあるのではないだろうか、ということです。

あるいは、
「話し合うことでどんどん発展していく“話し方”」
と、
「話せば話すほど分断していく“話し方”」
というのも、あるかもしれません。

たとえば「母性」の概念の話は、
それぞれ経験してきたものが違う、あるいはそもそも性別が違う、そういう人の間では分断を招くばかりだという気がします。
「母になるってすばらしい!」
「そういうとらえ方は嫌い!」
「私はそういう考えが嫌!」
「私はそれで苦しんだ!」
「私にはそれはわからない!」
・・・話はそこで決裂するか、堂々巡りになるか、のどちらかではないでしょうか。

「嫌い」、あるいは水葉さんがよく使われていた「吐き気がする」、そういうたぐいの言葉も、違う考えをはねつけるものです。
この言葉をぶつけられ、それでも討論しようとするなら、それは「嫌がらせ」としか受け取られないでしょうから。


一方で、
誰かが違う考えを披露するたびに、違う局面が見えてくる、そんな発展性のある議論というのもあります。
(今の「お玉おばさん」のコメント欄などは、かなりそれに近いと感じています。)

右と左だか、保守と革新だかわかりませんが、それぞれの中においても少しずつ存在する「考え方の違い」を、スリリングな議論にしていくことはできないでしょうか。私はそれを楽しみに、ブログ巡りをしています。

ちなみに水伝についての私の感想ですが、
私はたんぽぽさんのように考え、行動しようとしている者です。
しかし今回の件では、主張の正しさは認めますが、彼女(彼?)の「話し方」には、私は「話を発展させる」ものを感じることができませんでした。
「グダグダ」になるのには、やはり双方に理由があるという気がします。

しかしそれでも私たちは、
全人類を一つの感じ方、考え方に染めることができない以上、
人類の「共通語」になりうる「論理」と、それを開かれたものにする「言葉」とを、模索し続けるしかないのではないでしょうか。

ありがとうございます 

  • えあしゃ 
  • URL 
  • at 2008.04.20 23:44 
  • [編集]
愚樵さん
何かを生み出したのか、何かを生み出すのか?
それはわからないのですけどね^^;

共有と共感のエントリー、興味深かったです。
考えてみたら、共感と共有はごっちゃになりやすいですよね。
そして、議論の場でごっちゃにしている人は多いように思います。
単に共感しているだけなのに、共有している、と非難する。

今度ゆっくり読んで、愚樵さんの言わんとするところを少し考えてみます。

分断と発展 

  • えあしゃ 
  • URL 
  • at 2008.04.21 00:15 
  • [編集]
Lightさん
実はあの後、気になっていたので、こうしてコメントをいただけてほっとしています^^

分断と発展というのは、興味深い考え方ですね。

「母性」はたしかに分断を招きやすい話題だったように思います。
たとえば水葉さんのように、DVやレイプにあった女性や、
母性という概念に自縄自縛になっている女性に日常的に接していれば、
どうしても感情的な言葉が出ないではいられないでしょう
(あれは相手が愚樵さんだったからだとも思いますが)。

ただもっていき方によっては、母性でも発展性のある議論が
できるのかもしれない(愚樵さん、お願いだから試さないでくださいね)。

>「考え方の違い」を、スリリングな議論にしていく
そう、1人1人の考えの違いがおもしろいと思います。
事実をひとつひとつ並べていっても、見ているものはまったく異なるし、
そのうちの事実がたったひとつ抜けただけでも、同じ人が受けとる印象はまったく違うでしょうから。

議論のおもしろさは考え方をすりあわせることではなく、
考え方の違いから、新しい考えを見いだすことにあるのでしょうね。

今回、Lightさんにはいろいろ考えるきっかけをいただきました。
まだまだ消化不良なのでゆっくり考えたいと思います。ありがとうございましたm(_ _)m

きつかったもうひとつの理由は 

  • えあしゃ 
  • URL 
  • at 2008.04.21 22:58 
  • [編集]
愚樵さんが投げかけた問題が、自分の生き方そのものを問うものだったからでしょうね。
自分の生き方を肯定したい、そして自分の人生の主役として生きていきたい、
そういう思いだったのでしょう。

そこで、自己を一歩離れ、問題を対象化して見られるかどうか、というのは
他者と議論するうえでは決定的に重要になると思いますが、
ガキの私にはまだできないなー

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